歯医者行かなくてはいけないことはわかっていても、怖くて行けない方がいらっしゃいます。多くの場合に過去の歯科治療で怖い体験をしたというトラウマ(心的外傷)があります。当院にはそれでも勇気を持って、ご来院される方が少なくありません。
どのような体験をされて、そしてそれを持ってでも治療ができるようになるのかをご紹介することで歯医者に行くことを躊躇している方の一助になれば幸いです。
歯医者で受けたトラウマ
歯医者で受けたトラウマは様々です。小さい頃だけではなく大人になっても同じように心は傷つきます。何年経ってもすぐに思い出せる記憶は誰しもいくつかあるでしょう。楽しかったことも悲しかったことも、腹立たしいことも。それは強い感情と結びついた記憶だからです。歯科医療の現場では恐怖や怒り、悲しみといった感情が強く刻まれる場面が多く存在します。
- 小さい頃に歯医者で嫌がって押さえつけられて無理やり治療をした
- 麻酔なしで乳歯を抜かれて痛かったが止めてくれなかった
- 手を上げても止めてくれなかった
- 親が助けてくれず、歯医者の味方になってショックだった
- 歯医者に叱られた、怒られた
- 口の中に水が溢れて溺れそうになっても止めてくれなかった
- 質問すると明らかに不機嫌になって、何も言えなくなった
- 一緒に歯医者に行くのを親が面倒で嫌がっていた
- 終わってからも親から利口じゃないとなじられた
- 大切に扱われていない(子供だから、素人だから、時間がないから)
- 小さい頃は学習の機会が少ないため、命の危険として認識する
- 味方であるはずの親が怖い歯医者と同じ敵
- 親やメディアから歯医者は怖いところだと刷り込まれている
トラウマが強く、その時の場面を思い出すだけで涙が出たり震えたり何もできなくなってしまうのはPTSDという状態の場合も考えられます。
心的外傷後ストレス障害(PTSD)とは(国立精神神経医療センターHPより)
歯医者のトラウマがある場合はどうしたらいいか
一生、歯医者に行かないというのはなかなか難しい選択肢です。歯や歯茎にまったく問題が起きない人は限りなくゼロに近いからです。体との関わりも分かってきており、健康に過ごすためにお口のケアは必要です。トラウマをどうやって解決するかは人ぞれぞれのやり方があっていいと考えています。例に挙げると、
- ひたすら我慢する
- 半分眠るような麻酔(静脈内鎮静法)の間に治療してもらう
- 少しリラックス効果のある笑気ガス麻酔を利用する
- 安定剤を飲んで治療する、または筋肉注射する
- トラウマを根本解決できる心理カウンセリングを受ける
- 歯科恐怖症を診ている歯科医院で少しづつ感情をコントロールしてゆく(認知行動療法)
認知行動療法と心理学的なアプローチを使ったアプローチ
ここでは当院でルーティンに行っている認知行動療法と心理学的なアプローチを使ったアプローチを紹介します。
予診票
事前の予診票の記入依頼
初診では事前に予診票の記載を依頼(郵送かメール)しておきます。当日の時間の確保と患者さんがリラックスできる自宅で自分と向き合って記入することができます。待合室で時間に焦った気持ちになったり緊張している中では貴重な情報が得られにくいと考えています。歯科恐怖症の方は感情が先立っていることが多く、気持ちと事実を分けて書くという行為は簡単ではありません。
例えば歯医者の入り口を超えることが精一杯の歯科恐怖症の方でよくあるのはこういう感じです。「怖くて怖くて、痛くて口を開けているのがホント無理なんです。麻酔も効きにくいし。でもあちこち痛いししみるし、歯ブラシは平気なんです。先生、私が悪いんでしょうか・・・」お気持ちは分かるのですが、情報が断片的でどこに優先順位を置けばいいのかわかりにくいのです。診療台に座ることも難しい方なのか、歯を削る音がダメなのか、歯科に対するハードルの高低を知る必要があります。
予診票はその方のパーソナリティがよく現れています。字の大きさや形、文の構成、メールアドレスなど実際の本文以外の情報も得られます。例えば感情が優位なのか、理論的な思考なのか、これからインタビューを行う上でこちら側のアプローチの方法を考える情報になります。
患者さんに合わせたコミュニケーション
初診はカウンセリングルームからスタート
個室のカウンセリングルームで話をするところから始まります。一人では難しい方はパートナーやご家族と同伴で来て頂きます。成人していれば怖いことも一人で我慢して当然というスタンスはNGです。患者さんは歯だけではなく心にも傷を負っています、迎える側は患者さんに合わせて入り口を用意してあげる必要があります。
予診票で得られた情報から挨拶、日常会話のスタート、本題という順で進みます。
言葉選び
会話のペースや声の大小、言葉選びなどは患者さんの受け取りやすい形にします。予診票で得られた情報に合わせて患者さんの来院時間、待合室でのやり取り、歩き方、服装、持ち物などから推測します。初めから全てがマッチするわけではありませんが、反応を確認しながら修正を繰り返します。
姿勢、態度など
言葉も大事ですが、非言語のメッセージは影響力が大きいため、笑顔か真顔か、頷きの数やタイミング、目を合わせるかずらすか、ジェスチャーなど眼の前の患者さんに合わせて調整します。間違えてもふんぞり返ったり顎を上げたり、ペンで机を叩いたりしてはいけません。話を訊くプロとして相手に合わせた医師である必要があります。
患者さんに話してもらう
歯医者さんに行くと、話もそこそこに口の中を診て、口を開けたまま歯医者が喋って、患者さんから質問も出来ないという経験をよく伺います。口の中を診る前に患者さんと別室で話すことで、直ぐに治療に入らないという安心感を覚えてもらいます。
患者さんが書いた予診票は詳細な記載もあれば、簡潔なものもあります。いずれにしても一つずつ質問し、説明をしてもらい、また質問するということを繰り返します。時間の無駄のように感じるかもしれませんが、質問することで患者さんが気がついていなかった情報が得られます。
患者さんに何が怖いか、何が嫌か訊く
歯科恐怖症の患者さんは怖い感情を我慢していることが多いです。ストレートにあれが怖い、これが苦手だと言える方はいいのですが、なかなか口に出して言えない方もいます。直接質問をすることで、話してくれる事を数多く経験しています。言葉にできない患者さんの多くは治療を受けられない自分を責めています。過去の医療現場におけるトラウマは医療サイドからみてやむを得ない状況だったと思うこともあります。しかしながら、患者さんが苦痛を感じ、心に傷を負ったことは事実です。「そのくらいなら我慢できたでしょう」という考えは一切捨てて患者さんと向き合うべきと考えます。患者さんが最も心配しているのは自分の事を理解してくれる医師がいるかどうかです。眼の前の患者さんを理解しようと真摯に向き合うことで信頼関係は生まれていくと考えています。
患者さんのNGがわかると、それに応じて診査を進めます。診療台に乗れない方もいます、その場合は当日はお話をしながら解決方法を提案、ご相談していきます。
「怖い」を我慢しない
実は怖いという感情は我慢すると余計怖くなります。自分の感情に蓋をして抑えつけているわけですから、抑えれば抑えるほど出ようとします。感情を我慢やコントロールすることよりも、感じることをお願いします。そんなことしたら怖いでしょうと思われますが、逆に楽になります。
診察台でのコミュニケーション
診察台では患者さんはとても緊張します。ここではどんな事に配慮してコミュニケーションを取るかを紹介します。
視線
患者さんと視線の高さを同じか歯科医師が低い状態に合わせて正面か斜め前からお話します。上から見下ろすと威圧感が出てしまいます。正面よりも斜めがリラックスするのでは?という面もありますが、斜めの目線は心理学的に意味があるので必要に応じて斜めから話します。目を凝視すると緊張しますので焦点をわずかにずらすなど工夫をします。
何をするか話してから行う
患者さんは何をされるのかわからない不安や過去のトラウマで具合が悪くなったらどうしようという不安とでいっぱいです、ので、これから何を行うのか必ず説明してから行います。これは初回に限らず、毎回の治療の前に行います。初回は特に丁寧に説明します。もしも、変更があれば再度説明します。
可能であればお口の中の写真を撮って、(撮影出来たなら)X線と合わせて画面をお見せしながら説明します。模型を使うこともあります。
患者さんの反応を見ながら対応する
患者さんの反応をお口、頭部だけでなく手足の動き、体の硬さなど情報を得ながら声をかけていきます。この時にかける言葉は大事です。「痛いですか?」はなるべく避けます。「大丈夫ですか?」がベターです。わたしたちの脳は質問に対して自動的に回答を探すように出来ています。「痛いですか?」というのは「痛みが出ることをやってるんだ」「え?痛いの?そういえば痛いかも・・」などと不安が増してしまい、痛みの基準が変わってしまいます。ただし、痛みという単語を使わないと伝わらない場面も多々ありますので、そこは具体的な質問にします。例えば「これから割り箸のようなものを噛んでいただきます、噛んで歯や歯茎に痛みを感じたら教えてください」など。
また、初回や回数の浅い時はなるべく休憩をとります。「なにかあったら左手を挙げてください」というのは一般的ですが、ウチでは一回リハーサルを行います。それでも歯科恐怖症を持つタイプの方は我慢して言えない場合が多いです。先生に悪いから、嫌われたらまた他を探さないといけない、というような気持ちになっています。
治療中に配慮をすること
治療は最もハードルの高いパートでしょう、今までの積み重ねを維持しながら患者さんに合わせた対応をします。
麻酔
麻酔は最も嫌われる治療の一つです。「ほんっっとに嫌いなの」と眼の前で言われます。そこで何が嫌いなのか訊きます。医師が感情的になってはいけません、その代わりにストレートに質問します。今まで教えてくれなかった患者さんは一人もいません。「痛い」「ドキドキして怖くなる」「しびれが取れるか心配」などです。これをクリアすればいいわけで、また、痛みゼロに出来なかったとしても過去の痛みよりも少なければ、もう嫌だと言われることはありません。ではどうやって痛みの少ない麻酔を行うのか?を説明します。全てにおいて共通するのは緊張を避ける、です。
- 目はタオルで覆うかサングラスをかけてもらいます。見えるのが怖い人もいれば見えないのも怖い人がいます。見えてもダイレクトは避けたいですし、薬液などから目を守る義務があります。
- 口唇にワセリンを塗ります。乾いた唇を引っ張られる痛みは緊張に直結しますし、患者さんの事を思いやっていない先生とみなされます。もちろん、声がけしてから塗ります。
- 口唇、頬を引くためのミラーはお湯で温めておきます。指で引く場合は冬場はお湯で指を温めます。体温と差が大きい冷感は緊張を生みます。
- 粘膜を乾燥させて表面麻酔を塗ります。何をしているのか説明します、「塗り薬の麻酔が効くまで少し待ちます」といいます。薬が効くということを言葉にすると、効くんだという前提がインプットされます。
- 麻酔薬もお湯で温めておきます。体温より冷たい液体が体内に入ると痛みが出ます。
- 麻酔針は可能な限り細いものを使います。
- 口唇や頬を引っ張って少しだけ麻酔液を入れてしばらく効くのを待ちます。麻酔液を急いでいれると痛みが強く出ますのでゆっくりゆっくりと入れていきます。途中で気分は大丈夫か確認の声がけを行います。絶対やってはいけないのは「ちょっとチクッとしますよー」です。わざわざ痛いことをしますと前提しています。これまでの努力が水の泡です。「麻酔のお薬を入れていきます」「少し引っ張ります」「少し触ります」という声がけで十分です。
- 麻酔液は漏れる場合もありますので、必ずガーゼなどでガードします。もしも漏れた場合は吸うか、洗います。それでも苦味が残ってしまう場合はうがいをしてもらいます。残っていなくても嗽をしたい方もいます。
- 十分な配慮をしても針を入れる前の時点でガチガチに固まっている方もいます。この場合は、一緒にゆっくりと深呼吸をします、緊張すると呼吸が浅くなるので、必ず一緒に深呼吸をして長く呼吸できるように誘導してあげます。深呼吸は緊張を解くのに効果的です。他には息を吸うとともに肩を思いっきりすくめて、息を吐くのに合わせて肩をストンと落とします。緊張は体の硬さに繋がりますので、一度限界まで硬くすると、他は緩むしかありません。これで緊張を解いていきます。
- 麻酔が終わったらうがいをしてもらい、休んでもらいます。動悸が出れば、脈を取って確認します。多くは一過性のもので数分で治まります。動悸が緊張からくるものなのか、血管収縮薬からくるものかは初めは分かりませんので、事前に動悸の既往がある場合は麻酔薬を変更します。麻酔薬の中に入っている血管収縮薬であるエピネフリンが血圧を上昇させたり、過敏な方は手足が震えたりします。こういう場合はエピネフリン濃度を下げたり、違うタイプの麻酔薬シタネストオクタプレシンというものを使います。
無痛治療
歯医者さんのHPでは無痛治療を掲げているところがあります。実際に無痛は可能なのでしょうか?意識がはっきりいしている状態では完全に無痛にすることはできないというのが私の見解です。麻酔が効きにくい時もあれば、緊張が強ければ痛みは感じやすくなります。例えば、自動で麻酔を注入する器械を使えば痛みはないという情報があります。これもゆっくり麻酔液を注入すれば痛くないというもので、手でも変わりません。歯医者さんが楽ということです。表面麻酔も絶対ではありません。針も最も細いものを使ってもゼロにはなりません。がっかりさせてしまったかもしれませんが、それでも当院では殆どの患者さんが毎回麻酔をして、リラックスした状態で治療を受けています。道具は大事ですが何を使うかよりも誰がどう使うかの方が大事です。
実際の治療に配慮すること
実際の治療では様々な場面がありますが、代表的な場面の配慮方法を記します。
口を開けてもらうこと
緊張が強いタイプの方の多くは噛み締め癖などがあり顎も緊張しています。普段は噛みしめるように顎を閉じる筋肉を使っているので、開けようとすると凝り固まった筋肉に逆らわなくてはなりません。これは非常に疲れますし、術者も治療が困難になります。バイトブロックと呼ばれるシリコン製の塊を片側で噛んでいただくことで、患者さんは自ら開けずとも噛んでいれば治療ができます。肉体的な疲労だけでなく、噛んでればいいんだ、という安心感を得ることができます。もちろん、自分で開けていたいという患者さんもいます。パニック障害(あるいはそれに近い)の既往がある方は苦手な事があるようです。バイトブロックがあるからといってむやみに大きく開けることはNGです。できる限り少ない開口状態で治療を行うことがリラックスへと繋がります。顕微鏡は非常に有効な道具ですが、患者さんの姿勢や開口量に負担がかかりやすいため、強拡大の拡大鏡も使用して開口量を減らす工夫をします。
音への対応
歯を削る音が苦手な方はたくさんいます。高音ではない機械もありますが、比べてこちらなら大丈夫とは言われません。音だけではなく、体への振動など五感で恐怖を感じているのだと思います。希望に応じて患者さんごとに耳栓を用意していますが、ご自身のイヤホンで音楽を聴いてもらうことも可能です。ノイズキャンセリングイヤホンもありますが、フィットする時とそうでない時もあります。
時間について
嫌なことは早く終わって欲しいという願いは誰しもありますが、歯科治療は丁寧に行うとどうしても時間がかかります。時間がかかるものの、およそ何分くらいを予定しています、とか残り半分です、あと10分ほどですと進行状況をお伝えすると安心してもらえることが多いです。ゴールが見えないと長く感じますが、ゴールが見えると体感時間は短くなります。
治療後の説明
毎回、治療が終わったら何をしたのか、どうなったのか、見えれば鏡を持って見てもらいますし、術中の記録写真(動画)を撮っておいて、大きなモニターでお見せしながら説明します。そして次は何をするのかを説明して診療は終わります。よく聞くのは当日行ったら抜歯された、です。当院では抜歯や歯周病、インプラントなどの血が出る手術は前もってスケジュールを組んでもらってから行っています。すぐに抜かないとダメだと言われたという話も伺いますが、もしも一刻を争うような状態であれば先に点滴でもして炎症を抑えてから抜歯なハズです。一般歯科で緊急的な抜歯はほぼありません。
まとめ
過去のトラウマで歯科恐怖症がある方でも歯科治療を受けることはできます。
心理カウンセリング、行動認識療法、心理学的アプローチ、精神安定剤の利用、静脈内鎮静法などの選択肢があります。
歯科医院スタッフが心理学的アプローチと行動認識療法を行うことで多くの歯科恐怖症の方は治療が可能になります。